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『章姫』開発秘話

そのまま食べられる甘く大きいいちご
父・章弘がいちごの育種をはじめたのは章姫が初めではありません。実は20年以上前のこと、菊の品種改良を手懸けたことがありました。農業試験場に通い少しづつ改良をしていたのです。その当時水色の菊なんていうものも作っていましたが翌年には元に戻ってしまい種として固定できなかった思い出があります。その後、当時主流だった酸味の強いいちご…主にショートケーキに載せるための…が下火になると新種を開発し始めました。夢は甘くて、大きくて、まろやかで、やわらかく、つややかなもの!。試験場に相談に行くと「育種の技術があるのに人に頼るな」と言われ、たった一人で開発がはじまりました。何種類もの苗を交配し毎年1000株以上の品種を作る。それから数年、その収量、病害虫への抵抗力などをそれぞれに調べこれはというものを選び出して更に交配…これを繰り返し望みのものへと高めてゆくという途方も無い根気の要る作業です。父・章弘はこれまで10000種に余る育種をしてきました。そんな中、ケーキに載せるものとして「久能早生」という品種が生まれました。昭和58年(1981年)のことでした。これは現在でも久能海岸では数多く生産が続いています。ところが、ケーキ用だけでなく一般の人がそのまま食べるいちごを作ろうというのが夢だったのですから、それから更に10年!
あきひめは偶然の産物だった
父は万に一つと思える品種の開発に成功したのです。
勇んで協力農家に持ち込み育成試験を依頼しました。が、なんと!その農家が株を枯らしてしまった。
”同じ親からでも同じ子供は生まれない!”が育種開発の鉄則。夢の品種は潰えてしまいました。
そこで農業試験場の係官が[これは甘すぎる!」と評価をしていた品種を世に出すことにしました。
これが「章姫](あきひめ)だったのです
中国人は味で食べるが日本人は目で食べる父の持論です。
いちごに対しては「色はあくまでみずみずしい赤、形は先の尖った逆三角でなければ」と最後までこだわった。

品種登録をしたら大手の4社から販売権を売ってくれとの申し出があったが断った。「僕は、静岡の人に食べてほしい。地元のために作ったイチゴだから」と3年間は県外に苗を出さなかった。そのため今でも「とよのか」「女峰」などより知名度は低い。しかし
「女峰」を父に「久能早生」を母に章姫は生まれた
父・章弘が開発した[久能早生」は母に「旭宝」を持っていますこの糖度の高い品種の甘味と[女峰」の赤との”いいとこ取り”をした形で生まれたのが章姫だ。父は亡くなる直前まで品種開発をしていたので、遺産として実生120種が残された。
『章姫』を超えて
この中には『章姫』を超えるものが3種類ある。父の作った”幻の品種”により近いものだが、今はまだ世に出す時期ではないと見ている。父は生前「章姫が定着する前に次の品種を出すと生産農家が混乱する」と常々言っていたからだ。

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